上街道(木曽街道)・下街道

江戸時代、名古屋宿は五街道である東海道も中山道も通っていませんでした。
東海道は下の図で名古屋宿の南、宮宿から船に乗り、七里の渡しで桑名宿に向かいました。
また佐屋街道で佐屋に至り三里の渡しで同じく桑名に渡りました

上街道全図

一方中山道は恵那から御嵩、美濃加茂、岐阜と最短距離を京都に向かっています。
一方、杉やヒノキの木曽路は尾張藩の領地であり、藩の役人は頻繁に木曽方面にでかける必要があったことでしょう。

そのため尾張藩が独自に開いた街道が上街道(うわかいどう)又は木曽街道と言われて、名古屋城の東大手門から小牧、犬山ふきんを通って今渡の渡しで中山道と合流する道でした。
中山道を上って来た旅人は名古屋に行く場合、恵那を越えた辺りで槇ヶ根の追分から中山道と分かれて土岐、多治見、を経由して名古屋にでることもできました。
現在の国道19号線に当たるこの道は、山道を行く中山道に比べて平坦な川沿いの道でした。下街道(したかいどう)と呼ばれました。

しかし宿場制度を維持するため幕府は公用の役人や商人が下街道を通行することを禁じました。
でも一般庶民は関係ないため、多くの旅人が下街道を利用しました。上街道や中山道の宿場から下街道を通る商人を取り締まるよう度々申請書が出されています。

今回、この上街道・下街道を歩いてみようかと考えて、名古屋城から上街道で今渡の渡しへ、そして中山道で槇ヶ根の追分まで、そして下街道で名古屋城まで、一周するのはどうかと思いました。

思い立ったが吉日と暑い最中ですが金山から小牧飛行場辺りまで歩いてみました。

2015年7月24日(金)

当初は名古屋城からと思っていたが、東海道・宮宿から名古屋宿までの道も当時の主要街道で、通行も多かったそうなので、ついでに歩くことにした。

上街道1ただ以前、佐屋街道を歩いたとき、宮の渡しから図の左下、金山の佐屋海道分岐までは歩いているので、今回はそこから歩くことにした。

名鉄金山駅の南口を9時11分に出て、すぐ右折、伏見通りに出ると、そこが佐屋海道分岐です。

上街道544

南側に「左さや」の文字が見えますね。
西側には「左なごや」、「右宮」でしょうか。

上街道548

9時17分に、ここを出て古渡町方面に向かいます。交差点に木の案内があり、一里塚跡と書かれているようです。
渡るとすぐ街道は右の本町通りに入ります。

上街道551 上街道553
伏見通りから右に分かれる 橘町大木戸跡

右に入るとすぐ大木戸跡があります。ここが名古屋宿の入口だったのですね。
古い酒屋さんの家が有ったりして、宿場の面影もでてきました。本町通りは名古屋城と宮の渡しを結ぶ唯一の道路で、ここに店を構えることは名古屋上人の誇りだったそうです。

上街道557 上街道560
佛具屋さんが多い 9時47分

初めて知ったのですが、ここ本町通りは佛具・仏壇屋さんが多いですね。100軒近く有るんじゃないでしょうか。近くには西別院も有りますね。
朝の掃除をしていたご主人に、こんなに多いとお客さんは何を基準に店を選ぶんですか?と聞いてみると、笑いながら「チラシとかネットで見てくる人が多いと言っていました。

上街道563 上街道569
大須交差点 若宮ブリッジを渡る

大須に入ると仏壇は姿を消して、電気街に変わります。
大須を過ぎると若宮大通で、高架橋で横断します。橋の下ではホームレスの人が朝食の最中でした。
橋を渡るとすぐに鉄砲町で、大正3年とかの写真が展示されていました。下水管の埋設工事が行われています。

上街道571 上街道575
大正始め頃の写真 伝馬町 札の辻

すぐに伝馬町で、説明があります。伝馬会所があり、宮宿へ一里半、清州宿へ二里とあります。名古屋宿の中心ですね。
更に北上して桜通りを渡り、外堀通りの一つ手前に石標がありました。東ぜんこうじみちと刻まれています。

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ぜんこうじみちの石標 10時30分。 大津橋交差点

上街道の始点は東大手という地図を見て、そう思っていたのですが、ここが上街道・下街道の始点と思っても良いかもしれませんね。
私は外堀通りを右折して、東大手に向かいました。

上街道2途中で変なモニュメントがありました。(笑)

上街道582

名古屋とシドニー姉妹都市の象徴で、最初の船団の旗艦の錨の複製だそうです。
途中、赤煉瓦造りの立派な建物がありました。

上街道588

大正時代に完成した地方裁判所だそうで、現在は市政資料館だそうです。
東大手到着は10時58分。写真など取って11時丁度の出発です。


上街道592 上街道596
東大手 名鉄の駅があります 清水口の北で右に分かれます

東大手を出て清水口で左折、国道41号線に入ります。善光寺道を起点にしても、ここで合流します。そしてすぐ右に41号線と分かれます。
入るとすぐ「木曽街道と御成道」の辻」の説明があります。尾張家の別邸が大曽根にあり、別邸へ行く道が御成道だそうです。

上街道601 上街道603
御成道との交差点 稲置街道の説明 11時16分

少し歩くと三叉路になり、そこに稲置街道の説明がありました。尾張藩付家老の成瀬正成が犬山城主となり、その往来のため街道は更に整備された。
当時、犬山城は稲置村に有ったため、稲置街道とも言われたそうです。

上街道607 上街道608
アストロタワーが見える 志賀橋付近で街道は分断されている

超高層で建築当時憧れたザシーン城北のマンションがみえてきました。あれが庄内川ですね。
黒川の西、志賀橋交差点にでてきましたが、ここで街道は分断され繋がりません。右折して信号を渡り、左折して街道に復帰します。

復帰すると神社があり、一寸街道の風情も残す建物があったりします。

上街道611 上街道615
児子社 長喜町 11時40分 この辺で右折すべきだったか。

御昼前になり、食堂で昼食と思いながら歩いていたので、右折して1本東の道に入ることを忘れていました。

後半へ続く。