長島一向一揆
織田信長は1571年、73年、74年の3回長島攻めを行っている。
長島御堂願証寺は石山本願寺の信長討伐の激に応じ兵を挙げたものである。信長側から見れば一揆だが、本願寺側から見れば天下布武を唱える信長に対し宗教王国の守る自己防衛の戦であった。
当時の願証寺は北勢から尾張西部にかけて門徒10万人を擁し、その勢力は10万石とも18万石とも言われていた。
その当時の門主は蓮如上人の第13子蓮淳の子孫「証意」であった。
長島城を本城に願証寺と桑名・長島・弥富周辺に16の砦や城を構えていた。
当時、長島周辺は多くの島に分かれ、無数の水路が交通手段であり、信長得意の騎馬戦は不可能であったため、71年の長島攻めは5万の信長軍の完敗で、信長はほうほうのていで岐阜に逃げ帰っている。
左の図は1574年の長島ということになる。
この図も長島町誌からお借りしています。
その後、信長と石山本願寺は一時的に和睦する。
この間に信長は、反旗した足利義昭を追放し、浅井朝倉連合軍を破っている。
73年信長は前回の轍を踏まぬよう、長島本城周辺の砦や城をまず壊滅するため6万の軍勢で長島攻めに入った。
羽柴秀吉、柴田勝家らの名前も見える。竹中半兵衛が坑道を掘る戦術を指揮したとの記述もある。
この攻撃で願証寺側は多くの出城を失い、信長側も多くの犠牲を出した。
翌74年、信長は武田信玄と決戦を行う前に長島を壊滅させる決心をする。
今回は願証寺を壊滅させるため九鬼水軍はじめ多数の軍船が用意され、兵糧攻めが行われ、長島城は落城した。このとき何万の門徒が殺害されたと記録にある。
その長島城は現在長島小学校・中学校になっている。またその大手門が規模は縮小されながら蓮生寺に残っています。
願証寺はその後長良川の水底に沈み、現在跡形もありませんが、千本松原の下流にあったといわれています。
現在長島にある願証寺は、桑名願証寺の流れを汲み、長島御堂願証寺とは別物ながら、長島願証寺の信者を引き継いでいると考えられています。
近年、蓮如上人の法要が営まれ、本堂内部も一新され立派になっています。