初期中山道

上の図で青い線は中山道です。江戸時代に五街道が制定された当初は、中山道は青い線ではなく、下の赤い線だったそうです。
制定当時は贄川と日出塩の間、桜沢から牛首峠を越え伊那谷の小野宿へ、そして更に小野峠を越えて岡谷へそして下諏訪へ通じていたそうです。
それが制定後13年で現在の塩尻経由のルートに変更されました。その理由は中山道を制定した大久保長安の失脚にあると言われています。
元々、今の中山道は善光寺道や塩の道としても有ったわけで、それを強引に小野経由にしたのは長安の剛腕でした。
長安が死ぬと政敵の本多家が台頭し長安の業績はすべて否定されました。また前年から松本城主になった小笠原秀政の強い働きかけもあったとされます。
私は2009年の夏にこの中山道を歩き、そのとき初期中山道の存在を知りました。一度歩かなきゃと思いながら6年の月日が経ってしまいました。それをようやく今回歩いてきました。現在の中山道に変わったのが2014年なので401年前と言うことになりますね(笑)。
2015年4月28日。
朝5時前に起きて5時40分の電車に乗り、名古屋発6時12分の中津川行き普通に乗りこみました。ゴールデンウイーク前なのでまだ通勤通学の乗客が居ます。
中津川から松本行の普通が7時40分、それから2時間で日出塩です。
この路線はかって何回も乗ったので懐かしい風景が続きます。9時41分に日出塩ですが、その前に軽く昼食を執りました。
日出塩の駅前は相変わらず人っ子一人居ません。
ここを桜沢まで1キロ一寸引き返します。


初期中山道の入り口には大きな案内板がありました。2009年の記憶には、この看板は無いので、新たに作られたのかもしれません。
ここから少し贄川方面に行くと「是より南 木曽路」の有名な石碑があるので、今日はそれを見てから初期中山道に入ろうと思っていました。
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初期中山道の案内 |
初期中山道の入口 |
是より南 木曽路 の碑 |
10時03分に初期中山道の入口に着き、5分ほど先の石碑を見て、入口に帰ってきたのは10時14分です。この辺りの標高は812mです。
入口の初期中山道のマークがありましたが、要所にこのマークがあり助かります。すぐにJRの上を越え、境沢に沿って登って行きますが、舗装道路です。
10時47分に辰野町に入りました。
ここは地図の桑崎分岐で、入口に大きな馬頭観音の石碑があります。
11時16分に牛首峠お玉ヶ池ハイキングコースの道が右に分かれます。池まで1キロ、標高差200mとか。
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牛首峠お玉ヶ池ハイキングコース入口 |
牛首峠 標高は1060m位か |
鳥獣保護センターへ15キロ |
そこから3分で牛首峠ですが、あまり大きな案内もありません。中部北陸自然歩道の案内があり、鳥獣保護センターへ15キロとの案内があります。
この鳥獣保護センターというのが初期中山道と合致しているのかどうか、それが解りません。
なのでこの看板の通りに歩いて良いのか悪いのかわからないのです。

峠を少し過ぎた辺り左上に何かの案内が見えました。道を離れて登って行くと牛首塚の史跡でした。
可愛がってくれた美しい娘の死を悼んで暴れる牛を埋めたという牛首峠の謂れが書かれていました。この付近に道があるので旧道の初期中山道はこの辺りを通っていたのかもしれませんね。
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旧街道らしき道 |
前山の一里塚跡 江戸より六十里 |
蓼科山が薄っすら見えた |
すぐに舗装道路と合流しました。そこに前山の一里塚跡があり、江戸日本橋から六十里だそうです。
この辺りから蓼科山や北八ヶ岳の山が望めるそうですが今日は霞んでいます。東屋もあり、集落も望めて、休憩には良いところです。
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山口・中村などの集落を望む |
山口入口の石仏群 |
中村入口の道祖神 |
時間も11時38分と昼食にも良い時間ですが、9時過ぎに少し食べているので、もう少しあるきます。山口の集落までは1日7本のバスが来ているようです。
でも土日は運休です。集落の入り口には道祖神を祀って、道中の無事を祈ったようですね。
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中村の石仏群 |
火の見櫓も現役のようです |
飯沼塚原の一里塚跡 |
中村の石仏群が12時2分。この辺りでは桜も遅咲きですね。標高は900m位ですね。
更に下って行くと田圃の真ん中に大きな石碑があります。飯塚原の一里塚跡だそうです。
集落は下村だそうです。
一里塚跡から15分、12時49分に小野下町の信号に出ました。

ここは塩尻と伊那や飯田を結ぶ伊那街道です。三州街道とも言われます。
ここを左折して小野宿の中を歩き、すぐ右折して小野峠に向かうのが初期中山道です。
初期中山道後半へ