北国街道
北国街道というのがどうもよく解からなかった。
北陸道と北国街道の違いや、長野県と新潟県を結ぶのも北国街道。
滋賀県の琵琶湖の東側を北上するのも北国街道。
これらがこんがらがって北国街道を解かりにくくしていた。
左の図を見てください。下の茶色の線が中山道です。
図の左下、中山道の鳥居本宿から分かれて琵琶湖の東側を北上し、金沢・富山を通って上越市の高田から南下、長野を通って追分で中山道に合流する道があります。
これが北国街道と北陸道です。
その中で、鳥居本から今庄までと、追分から高田までを北国街道と呼んだようです。
本来、北陸道は加賀前田家が参勤交代で江戸へ向かうために整備した街道だったようです。
滋賀県の北国街道は、この他に木の本と関が原を結ぶ北国脇往還や、脇往還の途中から浅井家の居城小谷を通って米原に到る小谷道などがあったようです。
今回はこの広大な北陸道の一部、滋賀県と福井県にまたがる北国街道を旅してみようと思ったのでした。
2012年9月12日(水)
鳥居本〜木之本〜余呉
鳥居本から木之本までの北国街道は距離にすると多分30キロ一寸かなと思います。
1日で歩くには丁度良い距離ですが我家からの往復の交通時間を考えると一寸きついかなと思われます。それで自転車にしました。
米原で分かれたJR北陸線の坂田駅と田村駅の間の湖岸道路沿いに道の駅近江母の郷があります。


北国街道の出発点鳥居本までは10キロ弱、帰りは田村駅で降りれば2キロ位なので、ここに車をデポさせてもらいました。
9時半前に道の駅に着き、35分には走り始めました。
湖岸道路を南下して鳥居本の駅を目指します。
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近江鉄道 鳥居本駅 |
駅前付近の中山道 |
赤玉神教丸 本店 |
エレベーターのフジテックの前を通って、鳥居本駅到着は10時12分でした。石田三成の佐和山城の宣伝をしていました。一度行ってみようかな。
この辺りはまだ中山道なので、何年か前歩いた記憶がいくらか残っています。鳥居本の駅舎は昭和6年のものとか。江戸時代創業の赤玉神教丸の建物は何時のものでしょうか。
鳥居本出口の変なモニュメントを過ぎると中仙道の分岐です。中山道はここから右に別れて摺針峠を越えて、米原を通らず醒ヶ井に向かいます。一寸中山道へ入ってみましたが、荒れていて自転車には向かないので引き返しました。

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モニュメント |
摺針峠へ中山道は右折する |
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中山道と北国街道の分岐を示す石標 |
ここは左折、左図 米原の字の辺り |
ここから北国街道と思いながら進むと猿が一杯居ました。まあ人を見ると逃げるのが救いですね。すぐ傍の国道8号線を走っている人は、こんな近くに猿が数十頭も昼間から屯しているなんて考えもしないでしょうね。
米原駅を通り過ぎた辺りに北国街道と中山道の分岐点をしめす石の道標がありました。
右中山道、左北陸道と刻まれています。中山道は先ほど別れたはずですが、ここから県道240号線に出て、番場で合流したようです。
左折して8号線に出ますが、JRの線路が東海道・北陸・新幹線と在るため街道は跡形もありません。
跨線橋へ自転車を担いで登って越えましたが、降りてみると小さなトンネルがあるようでした。
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こんな跨線橋を越えた |
下にトンネルがあった 10時48分 |
天野川の向こうに伊吹山 |
この辺りの旧道は消えているようですが、県道556号線の辺りで天野川を渡り、飯(いい、又はいむら)の集落に入っていったようです。
いむらの里の石碑には「やけずこまずの井村の里」と書かれています。火事にもあわず、洪水にも強い」という意味だそうです。
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いむらの里 石碑 |
由緒ありそうな神社 |
田圃の向こうに伊吹山 |
適当に集落に入ってみると、由緒ありそうな神社があり、この辺りを嶋氏が納めていたような説明がありました。でも、寂れていました。
集落を出るとまた右手に伊吹山や奥伊吹の山々が広がります。
坂田駅をちらっと見てから街道の県道に戻って、長沢の集落に入りました。
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JR北陸線 坂田駅 11時23分 |
長沢城の内堀の跡 |
田村神社 |
左図の下、長沢村は12世紀の保元の乱辺りが起源だそうです。
また、その福田寺には15世紀頃、一向宗の蓮如上人が何回か逗留し、一向一揆の際には、この福田寺に何千人かの兵士がこもって戦ったそうです。
田村神社を過ぎて、高橋という辺りで街道は県道と別れて琵琶湖の方へジグザグに進む。
私は少し先から斜めに琵琶湖へ向かったが、赤と青の線が合流する辺りに、左の写真の石標がある。
左 北国道、右 京いせ道と刻まれている。
説明には「安政5年、高橋の見附屋長治郎が私費で建てた」と書かれています。
この位置に、昔のまま残されているそうで、ここが北国街道であったことを示す貴重な資料だそうです。
街道は北陸線の踏切を渡り、湖岸近くで川を渡って長浜へ向かいます。
この辺りは「さいかち浜」と呼ばれ、織田信長と浅井長政の戦いの際、周辺の浄土真宗10ヶ寺は本願寺の命により浅井方に付き、このさいかち浜で最後の戦いをして羽柴秀吉軍に敗れたそうです。
「さいかち」とはマメ科の落葉高木で、この地域に多く自生していたので、その名前があります。
現在は近くに1本を残すのみだそうです。
少し行くと左手に長浜大仏がありました。12時も近く空腹ですが、長浜駅前まで食堂も在りそうもありません。
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さいかちの木 |
長浜大仏 11時50分 |
天満宮の犬塚 |
近くに天満宮と犬塚がありました。昔、怪物を退治し自分も死んだ犬を祀ってあるそうです。我家にも100歳を越えた愛犬みーちゃんが居るので、少しでも長生きとお参りして、ついでに私の健康も祈願してきました。
線路を潜って、長浜市街に向かいました。長浜は若き秀吉が始めて城を持ち、楽市楽座を行って栄えた所ですね。
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長浜の城下町に入りました |
駅前通りと北国街道の交差点 12時06分 |
交差点の洒落た建物 |
駅前交差点に着くと、交差点から北の北国街道は大勢の人です。何かあるのかと思いましたが、これは通常の観光客らしいです。
そういえば長浜は黒壁スクエアーとか北国街道の宣伝に力を入れているのですね。こんな人の集まる北国街道はここだけでしょうね。
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近くの食堂で昼食 |
12時35分に出発 |
大手門通りとの交差点 黒壁スクエアー |
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交差点の黒壁五号館とか |
秀吉の茶亭門 |
武者隠し通り |
続きます。