大和街道 関〜新堂
いよいよ今回から大和街道に入ります。大和街道は江戸時代には加太(かぶと)越奈良道と呼ばれ、大和地方の大名が参勤交代に利用したり、伊賀の国と山城の国を結ぶと同時に、木津川の水運を利用して京大阪とも結ばれる重要な道でもありました。
また、この街道の歴史は古く、壬申の乱の大海人皇子や木曾義仲討伐の源義経が通ったのもこの加太越えでした。
10/10/04 天気晴れ メンバー単独
台風22号の影響で南奥駈を諦めて、今日は大和街道です。
関西線普通電車で関宿に着いたのは午前10時過ぎです。駅前の陸橋で国道1号線を渡り始めたのが10時10分です。まっすぐ歩いて関宿の真中、街道にでます。左折して西の追分に向かいます。途中、有名な関の地蔵さんや関の小万の菩提寺なんかありますが、素通りして西の追分(写真左)についたのが10時35分です。
ここで東海道と別れて大和街道に入ります。現在の旧国道25号線です。入るとすぐ大きな電光掲示板があって通行止めと出ています。台風の影響で土砂崩れでもあったのでしょう。歩きなら大丈夫だろうと進んでいくと、すぐ道が半分土砂に埋まっていました。徒歩は大丈夫です。JR関西線が加太川を挟んで対岸に見えます。
追分から25分弱歩いたあたりで街道は左に分かれて踏み切りを渡ります。小さな金場集落の中を抜けると、また踏み切りを渡り旧国道に合流します。旧国道は金場トンネルをくぐってきたのでした。JRはトンネルになりますが街道は川沿いに大きく回って行きます。途中、道端に栗の木地蔵という2体のお地蔵さんがありました。
歩き始めて2時間弱、12時近くに加太の集落に入ります。ここは近くに錫状岳と言う絶景の山があり、名阪国道のインターもあります。駅前を過ぎ、また旧国道に合流します。
どこかで弁当でもと思いながら歩きますが適当な場所がありません。ところで街道はここで突然国道を離れて左折します。目印も無く、知らなければ無理な道です。加太川の袂に地蔵2体があり、欄干の無いコンクリートの平板を並べただけの狭い橋で川を渡ります。そのまま歩くと民家のそばで山に突き当たり、道は消えているように見えます。
でもここは、今日の行程で唯一昔の街道の面影が残っている所で、ここを歩くために来ているようなものですから引き返すわけにはいきません。事実引き返す必要も無く少し山に入れば道は明確です。10分程山道を楽しむと、また国道にでます。大和街道の松並木復元の看板がありました。
弁当を広げるにも良いところなのですが、台風の後で濡れているので近くの線路脇の階段で弁当を広げました。持参の命の水も一寸飲みました(笑)。
30分程休んで出発しました。少し歩くと板屋の集落です。石垣のそばに数体の地蔵さんがありました。本陣跡と書かれた家は空家らしいです。街道名残の松らしい木もあります。街道から外れた国道沿いには川俣神社という相撲の土俵がある神社が有りました。レンガで造られたようなJRの線路の下をくぐって30分程山中を歩きます。左手に砂利工場があり右手に谷を回りこみます。
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川俣神社 |
この上はJR関西線です。 |
近くの地蔵さん |
この辺りJRとはだいぶ離れています。見えないのですが左手の尾根の向こうに大杣池がある辺りには、右手奥に旧街道が残っているとのことで、見当をつけて右折すると案内がありました。25号線と平行して500mほど引き返しながら歩きました。途中で切れています。地蔵堂や墓地跡などあり風情もあります。再度引き返して国道に戻ります。5−600m歩いてJRの線路をくぐると左手に鵜山池があります。1キロほどで国道と分かれ、街道は右に柘植の集落に入って行きます。3時頃です。
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旧道の案内 |
旧道は杉木立の中 |
JRの時刻は毎時5分頃で、3時5分は無理か、4時5分には早すぎるので、もう一駅新堂まで歩くことにしました。柘植の集落は街道の面影があります。神社仏閣がありますが、中でも「都美恵神社」というのが由緒ありそうです。
極楽寺近くの大師堂の付近で地元のお婆さんに話し掛けられました。「帰ったら社長してなはるの?」「いやいやぁ、サラリーマンですよう。」
中柘植の集落で街道は国道を渡って南に下がります。新堂の駅は国道の北側なので一寸焦ります。あまり駅から離れると4時の列車に間に合いません。すると又1時間待ちです。駅前に飲み屋でもあればいいがと思いながら歩きます。
駅の真南と思われるあたりで右折、西柘植小学校のそばを通って新堂の駅へでました。切符を買うと同時に列車が入ってきました。
大和街道伊賀の国へ