青の都サマルカンド
2014年10月22日(水)
サマルカンドは前身をマラカンダと言った。紀元前4世紀、遠征してきたアレキサンドロス大王は、「話に聞いていたとおり美しい。いや、それ以上に美しい。」と言ったという。ソグド人によって営々と築かれてきたサマルカンドは、1220年モンゴル軍の攻撃で、住民の四分の三が殺されるという壊滅的被害を受けた。
そのサマルカンドを再建したのがアムール・チムールである。「チンギス・ハーンは破壊し、チムールは建設した。」と言われています。
そのチムールが築いた帝国は下図のようです。中央アジアのオアシス地帯とイランやカスピ海沿岸を含む広大な帝国でした。

さて旅も終わりに近づいたので、持ってきた日本食を整理します。今回、特に日本食が恋しくなることはありませんでしたが、持って帰ってもしょうがないので、ご飯に海苔を添えました。まあ、日本の味ですね。
最初の訪問はアフラシャブの丘と博物館です。ここは古来サマルカンドが有った場所で、ジンギス・ハーンにより、徹底的に破壊され、以後現代まで荒野になっています。その丘に立つと現在のサマルカンドが良く見えます。
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海苔の佃煮を食べた |
アフラシャブ博物館入口 |
サマルカンドは古来オアシスの街 |
11年前に私はここに来ていますが、丘は何も変わっていません。ただ博物館は立派になったようです。
壁画のある場所はフラッシュ禁止なのですが、カメラ代を払って、すっかり忘れて、フラッシュで撮ってしまいました。すみません。
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7世紀の領主の館から発見されたフレスコ画の壁画 |
7世紀は玄奘三蔵が旅していた頃 |
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アフラシャブの丘、何もない |
四方に門があり、水道もひかれていた |
10年前には無かったモニュメント |
次に訪れたのがウルグベク天文台。ウルグベクはチムールの孫にあたるが、チムールが遠征中はサマルカンドに残り、文化や学問の振興に努めた。
後世に伝えられるサマルカンドの美しさは、チムールの軍事的才能とウルグベクの文化的才能がマッチして作り上げられた。
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ウルグベク天文台跡 |
巨大な六分儀 |
ウルグベクは15世紀、チムールの元で |
ウルグベクは1年の長さを365日6時間10分08秒と観測したが、現在の測定と1分も違わない。望遠鏡も無い時代の観測としては驚異的だそうです。
ただ、科学を至上とする政策はイスラム指導者の反感をかい、息子に暗殺される悲劇を生んだ。
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シャーヒ・ジンダ廟入口 |
この階段の数が重要 |
周囲はお墓、後方はレギスタン広場 |
次に訪れたのが、サマルカンドでも最も美しいシャーヒズィンダ廟群です。ここはサマルカンド随一の聖地で、チムールゆかりの人たちの廟が立ち並ぶ「死者の通り」です。今も巡礼に来る人が絶えず、ここに2回来るとメッカへ1回行ったことになるとか。私も2回目なので、メッカへ行ったことになるのか。
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文句なく美しい |
でもその装飾の多様さや美しさで中央アジア屈指の名所になっていて、巡礼がてらその美しさを鑑賞にくる人が多いのではないでしょうか。
勿論、モスクにはお坊さんも居て、皆祈りを捧げていましたが。
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一寸した広場はほっと息抜きできる |
この辺りはお母さんや夫人とか、女性の廟だったような |
現地の方も多勢訪れています。きらびやかな民族衣装の女性は、同じウズベキスタンの人々にも人気で、写真のモデルになっていました。
この廟群の観光は、たっぷり1時間以上の時間が必要です。また近くにはTシャツを売る店や露店があり人気でした。
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広場を逆から写しています |
民族衣装を着た女性 |
次はアムール・チムール廟へ。グリ・アミール廟とも言う。グリ・アミールとはタジク語で支配者の墓という意味です。わざわざタジク語でと書いたのは、ここサマルカンドはウズベク語ではなくタジク語が話されていた地域だということで、ウズベキスタンではなくタジキスタンに入れるべきではないかという話もあると聞いたものですから。
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アムール・チムール廟 |
チムールや孫、そして先生などの棺が |
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いずれにせよ、ここはチムールを始め彼の息子たちが眠る廟です。チムールの孫ムハマンドが1403年のトルコ遠征で戦死し、チムールが最愛の孫のために建設しました。しかしそのチムールも1405年、中国遠征の途上で急死します。
彼自身は生れ故郷のシャフリサブズに埋葬されたかったと言われていますが、ここグリ・アミールに最愛の孫と一緒に埋葬されました。
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アムール・チムール廟の屋外モスク |
アムール・チムール座像 |
長い午前中の観光が終わって、13時10分頃昼食になりました。あいかわらずサラダやスープでビールを飲まざるを得ないのは変わりません(笑)。
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ロバ車はやはりシンボルか |
ご飯はやはり嬉しい |
虎に見えるがライオンの姿 |
食後まず訪れたのは有名なレギスタン広場です。当初は神学校やキャラバンサライ、バザールがあり、サマルカンドの商業の中心地だったそうです。
現在は3つの神学校が広場を囲むようにコの字に建っています。17世紀にこの形になったそうです。
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レギスタン広場 砂地の意味 左がウルグベクの神学校 |
17世紀に完成したシェルドル神学校(右側) |
左側のウルグベク神学校は前述の天文台を作ったウルグベクで14世紀に建てられました。右側のシェルドル神学校の壁にはライオンの模様があります。これはイスラムの教義には反すると思わわれますが、支配者が自分の権力を誇示する目的で作ったと言われています。
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正面はティラカリ神学校 |
シェルドル神学校の中は土産物店 |
ティラカリの礼拝堂の天井 |
正面のティラカリ神学校のモスクは、既に崩壊が始まっていたビビハニム・モスクに代り、サマルカンドの主要礼拝所ととして使われていました。
その天井ドームは金箔で覆われ、非常に美しい。ティラカリとは金箔という意味だそうです。
この日も何組かのカップルが来て写真撮影をしていました。本格的なカメラや照明を使っているので、モデルを使った商業写真かとも思うのですが、プロのカメラマンを雇った本物のカップルかもしれませんね。
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商業撮影かな |
ビデオ撮影も皆やっている |
モデルかしら |
ビビハニム・モスクに行きました。チムールの妻ビビハニムは、チムールのインド遠征の凱旋に応えて壮大なモスクを贈ることにした。
その凱旋に間に合わせるため急ピッチで建設されたモスクは完成と同時に崩落が始まった。
いや、そうではなく、インド遠征から帰ったチムール自身が愛するビビハニムに贈るため、急がせて作ったという説もあり、こちらが有力です(笑)。
いずれにせよ、急がせて作ったため崩落が始まり、危険なため使われなくなった。
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崩落するビビハニム・モスク |
シヨブ・バザール |
バザールとビビハニム・モスク |
ビビハニムモスクの傍にバザールがあり見学しました。メロンの干したものが珍しく、買ってみました。
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若者たち バザールの傍で |
バザールの中 |
サマルカンドの観光にすっかり満足したり疲れたりしてホテルに帰るのは17時半頃です。
asiaホテルは、バザールから歩いて10分でした。
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asiaホテルは4つ星とか |
夕食のピーマン肉詰め |
また寝酒にウオッカ |
夕食は民家レストランに行きました。
明日はいよいよタシケント観光で、そのまま空港から成田へ飛びます。
なので、ホテルは今日が最後です。同室のTさんと最後の夜を惜しんで、またバーでウオッカを飲みました。
明日のタシケントへ。
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