佐屋三里の渡
かって東海道を江戸から上ってきた旅人は、名古屋の熱田で船に乗り海上七里の船旅で桑名に到着した。宮と桑名にはそれぞれ七里の渡し場跡が残されている。しかし全ての旅人が海路を選択したわけでは無く、当然陸路を好んだ旅人もあった。
その場合は、熱田から尾頭橋、万場大橋、七宝、津島そして佐屋と歩き、佐屋でやはり船に乗って今度は三里の船旅で桑名へ渡った。
佐屋と桑名の間には木曽川、長良川、揖斐川という大河が3つあり、橋の無い時代にはいづれにせよ船旅が必要であった。
この大河、木曽3川が現在のように堤防で仕切られた状態になったのは明治も中頃になってからで、それ以前は入り組んだ水路のある湾内の島のような状態だったらしい。
この地方が歴史上の舞台に登場してくるのは、織田信長による長島の一向一揆攻略である。
江戸時代に入り、参勤交代も行われ、五街道が制定され宿場も整備されてくると、この地方の大河木曽3川をいかにして越えるかは重要な問題であった。
長島町教育委員会編纂の長島町史からお借りして掲載する現長島町の江戸末期の地図をご覧ください。
現在の長島地区はいくつもの島に分かれて水路が交通手段になっていることが良く解ります。
さて佐屋宿ですが、徳川3代将軍家光が上洛の際、ここから船で桑名に渡ったのをきっかけに栄えたと言われています。
更に遡れば津島神社のある津島に港があったことがその名前からして想像できますが、江戸時代には土砂でだんだん埋め立てられ、港は下流の佐屋に移っていたのでしょう。
佐屋の港を出た船は佐屋川を下り木曽川に出て、長島輪中と葭ヶ須輪中の間を流れていた鰻江川を通って揖斐・長良川に出て桑名へ到着したらしい。
現在は佐屋川も鰻江川も締め切られたり埋め立てられたりして無くなっている。
そこで今回は佐屋三里の渡しから鰻江川沿いのルートと三里の渡しから熱田に至るいわゆる佐屋路を歩いてみることにしました。
2007年6月24日
今日は雨です。長島町の我が家から10分も歩けば国道1号線の尾張大橋西詰です。ここには明治26年に建てられた東海道という石の道標があります。この頃はまだこの尾張大橋はありません。
明治5年に熱田の宮から弥富市の前ヶ須まで新道が開通し新東海道が制定され、前ヶ須が宿場町になったそうです。
それに伴い佐屋の渡しは役割を終え、新たに前ヶ須に「ふたつやの渡し」が出来、ここから木曽川を渡りました。
尾張大橋が出来たのは昭和8年、翌年には長良川と揖斐川を渡る伊勢大橋が完成し「ふたつやの渡し」も役目を終えます。
とりあえず今回はこの長い尾張大橋を渡って「佐屋三里の渡跡」を目指すことにしました。8時55分のスタートです。
渡り終えると右前方に井桁屋という酒屋さんがあります。1886年創業とかで、新しい建物ながら趣のある造りでよく写真を見ます。その傍を通って堤防を降ると筏川があり渡ると「ふたつやの渡跡」の石碑があります。
ここから佐屋までは明治に制定された巡検街道を通って行きます。巡見街道は津島、一宮、江南、犬山と続いていたようです。
県道108号線?を越えて細い道を左折して国道一号線を渡ります。街道はもう一つ東のようですが信号が無いので渡れません。渡って右に歩き街道らしき道に入ります。近鉄の線路にぶつかり一寸左のガードを潜って旧155号線に出て行きます。
この辺りは昔、日本毛織の工場でしたが、今はイオンタウンとしてショッピングセンターです。
もう少し歩くと東名阪のガードを潜ります。この辺りからが古地図にも地名のある五之三です。左手に五之三地蔵なんかが出てきます。この辺で10時です。雨もしっかり降ってきました。
しばらく国道を歩いた後西保地区に入ると、右に旧道らしき道があり、そちらに入りました。雨にぬれたアジサイがきれいでした。法明観世音菩薩や法光寺、善定坊と続きます。新国道155号線に出てすぐ国道から離れて右折します。7〜800m歩いてふと見ると「佐屋三里の渡跡」の石碑がありました。250m手前で右折して細い街道に入るのを見逃したようです。この辺り地形図の現在位置が頭に入っていません。
交差点を挟んで代官跡、船場へなどの碑があります。ここが佐屋宿の中心地でした。
11時前でした。ここを右折して須依の交差点に出るのが街道ですが、直進してしまいました。大きな塚の上にあるお地蔵さんを見て、少し歩いて右折しました。相江神社を過ぎると信力寺です。この無人の寺の山門で雨宿りしていると、崩れた塀の中からイタチが2匹でてきました。とっても可愛いしぐさでした。
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佐屋三里之渡跡 |
代官所跡 |
船場へ |
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大きな塚のお地蔵さん |
相江神社 |
信力寺 |
後日、再度街道を歩いてみました。細い街道を歩くと横道に風情のある黒板塀の民家が有ったりします。先の「船場へ」の石碑の傍に出てきますが、ここだと「佐屋三里の渡跡」の石碑は見つけられなかったかもしれません。右折して歩くと須依の信号手前右手に「くいな塚」の案内の石碑があります。家の影で見逃しそうです。孔雀が飼われている家の角を右折、少し歩くと芭蕉のくいな塚がありました。隣は村社です。
須依の信号を左折、天神社や寺院を左に見て往時の隆盛を偲ばせる立派な民家のある街道を歩いた。民家が途切れて須依の信号から1キロで先の信力寺からの道と合流します。
街道に戻り、県道を内佐屋交差点を目指します。信号の手前右手に「佐屋海道跡」の石碑があります。「街道」ではなく「海道」なのが注目です。信号を右折して淡々と歩き名鉄の線路を渡ります。この辺りは多分海道は消えているのでしょう。
日置の信号の手前を左折して行くのが街道です。西愛宕町の信号は渡って右折、すぐ細い道を北東に進みます。一寸広い通りに出て左折北上すると津島市民病院です。丁度12時だったので病院を越えた所の喫茶店で昼食にしました。
地図を見ていると奥さんが話し掛けてきました。「歩いておられるのですか。この辺何か見るものあるんですか?」で、佐屋路の話をする。
店を出てすぐ東柳原の信号の手前を右折する。すぐに半分残った石の鳥居と2基の石灯篭がある。津島神社一の鳥居跡であり埋田の追分だ。昔はここで、江戸から来れば、津島道と佐屋路が分かれたとみえる。その道標も残っている。
今日はここまでということで津島神社へお参りすることにした。一の鳥居がある昔の参道を歩いていけば何かあるかと思ったが、結局何も無くて天王通りに出て津島神社に着いた。
お参りして天王川公園に出て一休み。雨の公園をじっと眺める。池の傍の道で津島駅に引き返す途中、橋詰商店街の突き当たりに津島神社参道の大きな石碑があった。この三叉路が有名だったらしい。この南北の通りが上街道とかで戦国時代の武将が通ったという説明が書かれていた。
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津島天王祭りは有名 |
日本一低い駅 |
天王通りの車止めには天王祭りのレリーフが埋め込まれていた。
津島から弥富は名鉄の路線がある。弥富は海抜−1mの駅です。
津島〜宮へ