琉球の歴史街道

国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)という言葉をよく耳にする。また私自身、以前沖縄の城跡巡りをして山田グスク跡を探していたとき、偶然、国頭方西海道の一部を歩いている。

それで近いうちに琉球王朝時代の歴史街道を歩いてみようかと調べはじめた。

幸い内閣府の沖縄総合事務所、北部国道事務所のホームページの中に「やんばる国道物語」という素晴らしいサイトがあった。
今回その中の文章や画像を無断ですがお借りして、琉球の歴史街道の概要を紹介します。

琉球間切15世紀初頭、南山と北山を征して琉球を統一した中山王の尚巴志(しょうはし)は首里に居城を構え王府を置きました。

沖縄本島を大きく三つに分け、恩名・金武以北の北部を国頭方(くにがみほう)、浦添・西原から読谷・具志川の中部を中頭方(なかがみほう)、那覇・南風原・大里以南の南部を島尻方と呼びました。

これはほぼ旧三山が支配していた地域に一致するのでしょう。

行政区域としては「間切」というのがあり、これは現在の市町村に相当します。

首里 政府の命令を各間切の番所に迅速に伝達するため国道が整備されました。これを「宿道」と呼びます。他に地方道である「脇道」、農道等の「原道」もありました。

宿道は原則幅8尺(2.4m)で両側に松並木を植え、一里塚も建てられたようです。

脇道は幅5尺、原道は未定だそうです。

さてその宿道が私の辿ろうとする琉球の歴史街道です。

まず首里城を起点として中頭方を北へ向かう道が二つ、西海道と東海道です。

中頭方西海道は浦添、北谷、読谷、越来、美里の各間切へ

中頭方東海道は西原、宜野湾、中城、具志川、勝連、与那城へ行きます。

次いで更に北の国頭方の各間切へ向かう道が二つ、これも西海道と東海道です。
国頭方西海道は中頭方の読谷から分かれて、恩名、名護、本部、今帰仁へ。


琉球街道名護からは更に羽地、大宜味、国頭へ行きました。また伊江島や伊平屋島へも行ったようです。

国頭方東海道は美里から分かれて、金武、久志、羽地で西海道に合流しました。

次に南部の島尻方です。ここも二つのルートに分かれるのですが、海道と呼んだかどうか定かでは無いので、宿道としておきましょう。

島尻方真和志宿道は首里から真和志、豊見城、小禄、兼城、高嶺、真壁、喜屋武、摩文仁(糸満)と廻ります。

島尻方南風原宿道は南風原、大里、佐敷、知念、玉城、東風平、具志頭と廻り、これら6本の宿道で沖縄本島をくまなく繋いだのでした。

詳しくは前述の北部国道事務所のホームページをご覧ください。

左の図はホームページの中の図を見ながら私が描いたのですが、余り上手くありません。まああまり借りた図ばかりでもまずいかと思って描いたのです(笑)

正確には前記ホームページを見てください。

その他にもペリーが歩いた道というのがありました。
幕末にペリーが黒船で浦賀に来航したことは誰でも知っていますね。

でもそのペリーが沖縄に上陸して、宿道を何日も掛けて歩いて調査していたなんて知りませんでした。

ペリーは那覇波の上の護国寺を出発し、首里から中頭方東海道を経て国頭方東海道に入り、金武辺りで島を横断して恩名村に入り、国頭方西海道、中頭方西海道を経て返ったといいます。

その間6日間、アメリカがアジア進出の補給基地として沖縄本島が使えるか否か調査していたわけです。

その様子は沖縄の地図や産物・風俗とともに「日本遠征記」としてアメリカで出版されているそうです。

さて問題はそれら宿道がどのルートを辿っていたのか、又そのルートが今も残っているのかですね。ペリーの歩いた道。

琉球564
前述のように国頭方西海道については恩名村の山田付近に残っていることは知っていました。

更に調べると、近くに恩名村博物館があり仲泊遺跡や海道のパンフレットもあることが解りました。

早速お願いしてパンフレットを送ってもらいました。
左の写真がそうです。

写真左側のパンフレットは無料で配布されているようです。
右の冊子は有料で600円でした。

これで次回訪沖したとき真栄田〜仲泊の5〜6キロの国頭方西海道の一部は歩けそうです。(2010年5月21日に歩きました)

中頭方西海道についても首里から浦添城跡までは辿れることが解りました。浦添から牧港そして北谷への道はまだ不明です。

むしろ今話題の普天間への道があることが解りました。国王が普天間宮へお参りした道で、普天間街道と呼ばれたようです。

他に「真珠道」(まだま道)と言って、首里から那覇港へ兵士を移動させる道があったようです。

これは首里から金城の石畳道を通り識名園を通るようなので、それとは知らず私も歩いているようです。島尻方真和志宿道を通っているようですね。
次回の沖縄行きはまだ未定ですが、楽しみが一杯です。