熊野街道 紀伊路
熊野街道紀伊路は大阪の天満橋から紀伊半島の西側を南下し、和歌山・御坊を越えて紀伊田辺に至る道です。
京都を出た中世の参詣者は宇治の中書島辺りから船で淀川を下り、摂津の窪津(現在の大阪天満橋辺り)に着き、そこから陸路を紀伊田辺に向かった。
紀伊田辺からは東に向かい中辺路と呼ばれる山道を通って熊野本宮に向かうのがメインルートだったようです。
他に、田辺からそのまま海岸沿いに南下し、串本を廻って那智に至り雲取越えで本宮に向かう道を大辺路と呼びました。
大阪や和歌山では紀伊路は小栗街道と呼ばれていますが、古い道標には「熊野道」と書かれているので中世には熊野道が正式だったかもしれません。
ともかく、紀伊路から中辺路と続く熊野道は中世の上皇などが辿った公式ルートだったので、道中には熊野権現の子弟や眷属をお祀りする王子と呼ばれる神社が数多くあり、道中の宿泊や休憩に使われています。
これを世に九十九王子と呼びますが、中でも位が高く設備も立派だったのが五躰王子と呼ばれる五つの王子社です。
ちなみにその五つは藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子です。前2社は紀伊路に後3社は中辺路にあります。
左の図をご覧ください。これは岩波新書、小山靖憲先生の「熊野古道」からお借りしたものです。
熊野古道について学問的な知識が皆無だった私は、この著書はじめ多くの書物の受け売りになっています。
言いたいことは、いろいろな熊野街道がありますが、王子社が有ったのは紀伊路−中辺路の熊野道だけだったと言うことです。
伊勢路、大辺路、小辺路、奥駈道等には無いのです。やはり庶民の道や修験道の道には必要なかったのか、それとも他の街道が使われだした時代には宿場などの施設が完備してきたからでしょうか。
そんな事を考えながら歩いてみましょう。
さて私の歩いた紀伊路の記録です。