熊野古道
熊野詣でというのはいつ頃からはじまったのでしょうか。奈良時代の終わりにはすでに山林修行の地として知られていたらしいが、やはり多くなったのは平安時代です。
新宮にある熊野速玉神社の案内では、後白河上皇が34回、後鳥羽上皇が28回、鳥羽上皇が21回熊野参詣をされているとか。片道2週間以上掛かった、当時は政府の威光もも届かない治安の悪い街道を、何故こんなに通ったのでしょうか。現世利益の教えが参詣者を募ったのでしょうか。文献によると、街道の無事通過の代替に年貢を免除したともいいます。
ところで熊野古道とはどこでしょうか。
左の地図にあるように各地から熊野本宮にお参りする路を熊野街道と呼びました。
伊勢路、紀伊路、小辺路、大峰奥駈道などです。
今回は「紀伊山地の霊場とその参詣道」ということで、高野山と吉野山そして熊野三山とその参詣道である熊野街道のうち、昔の面影が残る部分が世界遺産に登録されました。
平安時代後期に後白川上皇が編纂した「梁塵秘抄」に次の有名な歌があります。
「熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大無辺の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず」
つまり、平安時代にはすでに紀伊路と伊勢路があったわけです。
特に熊野信仰の知識も無く、街道歩きの一環として歩き始めて数年、少しは熊野について知識を増やさなければと思ってぼちぼち勉強しています。
熊野信仰とは何か、王子とは何か、解らないことがいっぱい有ります。
最近の熊野古道歩き
熊野本宮大社周辺は湯の峰温泉や観光地がいっぱいです。 |
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伊勢神宮から熊野本宮へ、江戸時代に栄えた庶民の道です。 |
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一部修正しました。 |
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伊勢路のバイパスです。田丸で分かれて南下し、いっぽんは |
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熊野市で浜街道から分かれて本宮への近道です。 |
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熊野市から七里御浜伝いに新宮まで歩きます。 |
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新宮と本宮を結ぶ重要な陸路でした。 |
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京都から淀川を船で下った参詣者は窪津(天満橋付近)の第一 |
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紀伊路の紀伊田辺から本宮大社へ |
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高野山から熊野本宮への厳しい山越えの道です。 |
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桜で有名な吉野から1800m級の山々を越えて熊野本宮まで |
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紀伊路の田辺で中辺路と分かれ、紀伊半島を海岸沿いに南下 |
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熊野那智大社から湯の峰温泉を経て本宮大社へ。 |
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裏本宮道 |
熊野市の木の本から井戸川を北上、一の水峠越えで赤倉へ |
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のではないでしょうか? |